百貨店勤務から、フランスの日本語教師へそのしなやかな生き方とは?

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中村ゲール潤子 さん

元々は百貨店・三越に勤めるキャリアウーマンだった中村ゲール潤子さんは38歳で脱サラし40歳で渡仏。その後、仏大学院で経営の修士号を得て、高校・大学の日本語学科常勤講師へ転身されました。年齢や国籍に縛られない、エネルギー溢れるこれまでの経験を伺いました。

「辞めるなんてバカじゃないの?」と言われたが

まず、日本の大学を卒業して三越に入社したのですが、海外研修制度の行先として第二希望になんとなく書いたフランスに決まったのが最初のきっかけですね。私の場合は半年間、中部フランス・ヴィッシーで語学研修をした後、パリ三越に勤務するというものでした。

 語学研修中はホームステイをしていました。料理好きなマダムの作るコース料理はとても美味しかったです。食に興味のある私にはフランスの家庭料理を学ぶことができる良い経験でした。帰国後は旅行事業部に所属し、旅行の企画・添乗の仕事で度々フランスに。そのうちにフランスの生活に未練を感じはじめて……思い切って退職しました。周りには「40歳前に辞めるなんてバカじゃないの」って言われましたね。

とても大変でした。渡仏後リヨンの語学学校に通っている時に、フランス人の友達に「いつかパリで働きたいな」と言ったら「フランスの資格を持った方がいいよ」と言われて、締切が間に合うエクス・アン・プロヴァンスの大学院に申し込みました。奇跡的に合格して通うことになったのですが、周りは20代の若者ばかり、日本人は1人。授業は聞き取れない、友達から借りたノートは速記だから象形文字みたいで読めない……1日10時間は勉強しました。論文のほか、エクサン・プロヴァンス出身の画家、セザンヌ没100年イベントなどの研修を重ねて、なんとか経営の修士号を取ることができました。

その頃出会ったフランス人と結婚したことで、パリに行くつもりがエクス・アン・プロヴァンスに居続けることになりましたが、ここはあまり仕事がなく、結局近所のお寿司屋さんで働いていました。お寿司屋で一流の日本料理のシェフに出会うことができ、ますます食に興味がわきました。

結局その仕事から、フランスの職業訓練校に通い国家資格CAP CUISINE調理師免許を取ることになりました。人生何があるかわかりません。

 そんなある日、突然アヴィニョンの高校から「日本語教師を探している」と電話がかかってきました。夫が私の履歴書をインターナショナルスクールに勝手に送っていたことが発覚。履歴書が学校関係者の中で回って連絡が来たようです。未経験だから断ろうとしたら「君は修士号があるから大丈夫」と学校から謎の説得をされました。経営の修士号なんですけど…。その後、フランスの教育委員会の書類審査を受け日本語教師養成研修を重ねて日本語教師として認められました。

フランスの高校生たちを広島原爆記念館に

高校の日本語教師を始めて8年後、大学からもお声がかかり、5つの大学をかけ持つようになりました。この2年は毎年250人ほど日本語を履修する学生が入学してくる大学の常勤講師になりました。フランスや欧州各地で遠隔も含め数多くの日本語教師研修会が行われていて、互いに切磋琢磨する環境があったのは有難かったです。

フランスの生徒は日本のアニメや音楽が大好き。普通のフランス人より主張が強くない、日本人に近い印象がありますね。交換留学で日本に行った生徒たちは「フランスにある日本食は日本食じゃない」とか「日本人は毎日寿司を食べないんだね。寿司よりもおいしいものがあった」などと喜んでいました。旅行事業部の経験を生かして、日本へ高校の生徒たちと修学旅行に行ったことも。広島の原爆記念館に連れて行った時には、生徒たちの神妙な顔と驚きをそばで見ることができ、印象深かったです。

40歳を超えてフランスに来て予期せぬ展開となりましたが、その場で精いっぱい過ごした結果、知らない世界を経験できました。今は夫の転勤で、再びパリに引っ越して心機一転です。また何かを一生懸命頑張ってみたいなと思っています。